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手紙:2022-05-20

愛の置き換え

人格はエネルギーの器

現在、人類のテーマは愛です。愛が発達すると、自然に知性や理性も発達すると言われています。進化を学んでいる私達は、一生懸命学び、まじめに仕事をして義務を果たし、瞑想も実践するよう心がけているでしょう。しかしそうしていても、自分が変わった実感が持てず、それどころか同じ失敗を繰り返し、知性が本当に発達しているのかと悩む事もあるでしょう。

瞑想で光と接触しても、上手く光を取り入れられていない場合、中々実感が持てないのが実情です。それには、もう一歩積極的な踏み込みが必要です。今回は、愛をエネルギーとして捉え、次の段階に進む為の取り入れ方を考えてみましょう。

ここで、人格を魂的エネルギーが入る「」と考えてみましょう。器に新しいエネルギーを入れようとしたら、そのエネルギーに沿った目的を持ち、実際に行動しなければなりません。ところが、器には元々別のエネルギーが入っています。それが「欲望」です。人格はこの世で活動する力を得る為、最初は欲望を中心に成長するものです。私達の器は、最初欲望に満たされているので、それをいくらか捨てなければ、新しいものは入りません。

実際、良い目的や義務を果たす時、私達は一定の時間欲望を我慢します。この時、欲望を本当に捨てたのかが問題です。大抵は捨てたのではなく、押し込めて抑圧しているので、活動が終わると器に同じ量が反動で戻ってきます。これでは、器の欲望を捨てずに、形式的に良い事をしているに過ぎません。一度に全部は無理ですが、少なくとも欲望の一部を捨てなければ、器に新しいものは入って来ないのです。

捨てる事の大切さ

人類は、昔に比べて人格がかなり洗練されてきました。ですから、善を目指し、良い事もしますが、同時に今までの欲望も同じように持ったまま生きようとします。自分にとって満足や快感を与える事はとっておき、余った時間と力で良い事をし、瞑想もします。大事な欲望を諦めると苦しいので、できるだけそこにはメスを入れないようにするのです。あるいは一つ諦めると、穴を埋めるように別のものを取り入れて、心を満足させようとします。

欲望とは、それ自身に知性があり、その人や人間の好みを良く知っている為、何とかして器の中に居座って「欲望生命」を永らえようとします。私達は何度も欲望に騙されて、自分は変わったと思う事もあるでしょう。

しかし、魂も人格を見捨てません。善意があり、瞑想で魂に意識を向けようとする人とは、引力を離しません。接触が始まると、器の中の欲望は、一時期激しく振動するようになり、抱えているものの結果が早く出るようになります。そうすると、器の中の欲望が形となり、病気や問題が発生します。いわゆるカルマの法則の発動です。この問題の発生が、欲望を捨てるまで、何度も繰り返されるようになるのです。

人は不幸が何度も繰り返されると、ようやく真の原因を考え、実は欲望が捨てられていない事に気付きます。つまり、器に欲望を持ったままでは、また辛い目に遭うと悟るのです。その時、ようやく器から欲望を捨てる決心がつくでしょう。個人的欲望を捨て、魂の愛が入るスペースを作って取り入れる、これが真の犠牲です。捨てた分だけ新しいエネルギーが入ってきて、人格の感覚は洗練され、新しい喜びを感じるようになるでしょう。その時初めて、人は愛を実感し、自分が変わり始めたとわかるでしょう。

分配の手順

次に大事な事は、愛は人々の中で分配すべきであると言う事です。魂は物質界(人類同胞と自然界)の救済が目的なので、周囲に分配される事を目指しています。人格を通じて、分配された分だけ、更にエネルギーが供給されます。人間同士が助け合い、愛の交流をすると、人間に繋がっている自然界にも、自動的に大きな影響が与えられます。また、愛が発達すれば、自然界への接し方は自ずと改善されるので、人類同士の愛の分配は、現在重要課題になっています。

沢山学び、懸命に瞑想しても、実際に人の為に分配していなければ、魂はエネルギーを器に入れる必要はありません。エネルギーが入って来なければ、接触はしても、人格内部での新しい混じり合いが起こらないので、実感が掴みにくくなるでしょう。この原理を理解して、一歩積極的に踏み出してみましょう。

さて、愛を分配する時、もう一つ重要な点があります。エネルギーを自分に取り入れて、消化してから出す事です。たとえば、知識でもそのまま文字を読んで伝えるのではなく、自分で理解し、自分の個性を通じて表現すると言う事です。料理で言えば、生魚をそのまま出すのではなく、相手の好みに合わせ、料理して出すようなものです。魂エネルギーは、個人に同化され、その人の体験や実感、カラーなどと馴染んで表現されると、真の魅力や放射を醸し出します。ここにメンタル的に考える努力や表現力の訓練が課されるでしょう。

新しい愛のエネルギーを自分のものとして実感するには、欲望を一部捨て、愛を取り入れて自分の中で消化し分配する、この一連の努力が必要です。変化を実感できない場合、これらの手順のどこが欠けているか、考えてみましょう。

十字架上の広がり

愛は十字架の形で象徴されます。水平線状の横線は、幅広い経験や人間関係の包括的理解に関係します。横が広い分だけ、高く深く縦の線を拡張する事ができます。その為、多くの人が今、家族関係だけでなく、社会的な関わり、組織的な活動を強いられているのです。認知症の予防でさえ、社会参加や家族以外の人間関係が含まれています。

とは言え、世界中の人と知り合い、あらゆる経験をする事は不可能です。そこで、一つの出来事や経験して知った事を良く考えて、世界には同じ体験をしている人がいて、同様の問題があるはずだと、拡大して考えてみましょう。これが「個人的経験を公式化」し、理解を水平線状に広げる事に繋がります。こうしておけば、経験は他の人にも伝えられるよう料理され、多くの人と共有したり、他の事と関連させて応用できます。

反対を言えば、次々と新たな経験をし、沢山の人に会い、あれこれ活動を展開しても、考える時間と公式化が無ければ、水平線は広がりません。また、その経験の意味を考える垂直方向の線も、立ち上がりません。自分の体験は、社会とどう関係するかを考え、経験を丁寧に整理して考える作業は、愛の発達の為には不可欠です。

愛の一つの能力は、人々が何を求めているかを広く知る能力です。また、愛が深ければ、魂が何を分配しようとしているかも理解できます。この二つを知れば、魂の愛は正しく分配されるでしょう。人々の求めているものを知り、魂の方向を知る。この二つの探求が、水平線と垂直の広がりで意識の十字架となり、その現実的な活動の折衷案を考える事が、私達の役割となります。そこには、自分の事を考え、自分の欲望を差し挟む余地は、多分無いでしょう。

犠牲と真の喜び

犠牲と言うのは苦しいものですが、その先には欲望に由来しない愛の喜びと繫がりが生まれます。欲望を中心とした今までの繫がりとは違う関係が、結果的に自分を育てるでしょう。少しずつであっても、この繰り返しを積み重ねていると、器の中に欲望はいらないとわかり、やがて人の器は、愛のエネルギーに置き換わってしまうでしょう。

人格と言う器を浄化し、愛のエネルギーに置き換える事は至難の業です。しかし、その道を歩んだ先達は沢山います。彼らは「私はあなた方のどんな人よりも、辛苦を舐めた人間だ」と言っています。しかしこの時代、捨てる辛さより、愛の感覚に魅了され、新しい喜びに引き付けられる人が増えています。人類が愛の喜びに目覚め、器の中から無理なく欲望を捨てられる時代、多分これが黄金時代と呼ばれるものなのでしょう。私達は、その入り口に立っているのです。

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