Letters
手 紙
手紙:2017-01-06
永遠に輝く命
正義感の弊害
最近皆さんの周囲でこんな言葉を耳にする、あるいは自分自身が言った覚えはありませんか?「私はずっとこう考えてやってきた」「苦労したが、正しい事をやってきたつもりだ」「一生懸命勉強して、とうとうこの事を克服した」…。それだけやってきたのなら、満足し清々しい気持ちであり、周囲も認めてくれるはずです。
ところが家族や友人、仕事仲間や周囲の人との人間関係を見ても、まだ問題が解決しないまま、望んだような結果が出ていないように感じます。本人もそれだけやったのに、どこか空しさや不安が残り、気持ちが揺れ動く…。だから余計に同じ事を言い募って、同じように繰り返し、更に虚しさが増す…。こんな事を多くの人が経験しているのではないでしょうか?
人生の苦労を重ね一生懸命努力した人からよく聞かれる言葉ですが、これは年齢からくる不安が原因なのでしょうか?実は若い人でも、絶対正しいと懸命に取り組んだ子育てや家庭の問題、あるいは会社で仕事や人間関係を通して、同様の経験をしている人は多いはずです。
この根本には、以前の時代に培われた犠牲心や信仰心があります。夢や信念に向かって、心を犠牲にし、一生懸命努力する事が、正しい生き方だという正義感です。この生き方を進めて、私達は理想や神の概念まで到達しました。そして、一人一人が自分の目標や信じるものに向かって、懸命に努力する能力を獲得したのです。
しかし、このような生き方は、頑なな信念や狂信的な思い込み、幻想や視野狭窄と言った意識の「結晶化」を生み、大きな弊害となっています。もし私達が「私は絶対に正しく、相手が間違っている」「これさえやっていれば間違いない」「正義は一つである」「自分の意見に賛同しないと、許せなくなる」「私はその問題を超え、クリアした」「正しいからこそ、魂が守ってくれる」というような考えを持っていたら、それは古い時代の旧観念に支配されている可能性があります。
このような正義感は、大きな所では世界の宗教対立や国家間の理念のぶつかり合いになり、小さな所では人間関係の争いや支配、どちらが正しいかなどの、善悪論や優劣に関係しています。会議や仕事での発言、子供に対する教育の態度、家族との接し方、奉仕活動での話し合い、あらゆる所で、このような熱血的信念、狂信的正義、支配的な態度をとっていないか、注意深く自分を省みる必要があります。何故なら、このような考え方は広く浸透しているので、人は無意識に古い時代に留まってしまう可能性があるからです。進化は次々と進められているので、私達は以前達成したものから脱却し、次のステージに進まなければなりません。
結晶化か視野の拡大か
現代は、悟ったからこそ、経験を重ねたからこそ、自分だけが正しい訳ではないと理解する時代です。経験から一つの信念に至った時代と比べると、まるで反対のように聞こえますが、それは意識の拡大が最重要課題となっているからです。考えてみれば、たった一つの考え方しかない、一回の人生で悟った事だけが真理であるはずはありません。何かに到達したという考え、苦闘して至った悟り、絶対的正義のような激しい思い込みは、「人格の結晶化」を起こし、他のいかなる考え方や可能性とも融合しない障害を生み出します。
こうなると、相手との話し合いは成りたたず、周囲は持論を説得する対象です。賛同するかしないか、しないなら排除するという極論となり、終いに争いが勃発するのです。これでは、その人の理想や考えや思い込みが、唯一絶対の宗教のようになってしまいます。論理が正しいかどうかではなく、このように意識が結晶化してしまう事が問題なのです。信念があり正しいと思いながら、何か不安で感情的になるのは、実は意識の限界を感じている、あるいは人間関係で孤独を感じる為です。そこには意識の壁があるのです。
正義や信念は一見精神世界の話のようですが、魂からみると、実は人格の正当化で、分離した個人の物質的主張にすぎません。物質的であるからこそ、融合や話し合いができないのです。注意深く観察すると、自分を含め多くの人間関係の争いや感情的問題、劣等感や優越感などが、いかに意識の結晶化を表しているかがわかってきます。私達は何かを成し遂げた時、経験を重ねた時、考えが結晶化していないか、慎重に注意する事が大事です。
破壊をチャンスに
現在地球は、物質の振動率を上げて時間を早め、結果を早く出すよう強いエネルギーを送っています。新しい考え方の人々も続々と生まれ、古い考え方に注意を払わなくなってきています。その結果、今まで生きがいになっていた信仰や信念、感覚的高揚や思い込み、小さな理想が次々と壊され、無価値になったり、虚しく感じるようになったのです。また一度は力を得て実現した事も、勝手な思い込みであれば、すぐに力を失うよう周期が早く巡ってきます。これは個人にとって辛い事ですが、進化から見れば、夢から覚め、視野が広がる絶好のチャンスと言えます。
このようなチャンスが訪れた時こそ、科学者が実験をするように、自分の意識(動機)と、実際に行った事、結果を検証し、落ち着いて考える必要があります。「私はちゃんとやっている、正しい」と言い張ると、他の人の意見を聴く事もできず、検証もできず、何も改善する事ができません。謙虚になり、不愉快であっても、意識のあり方、実行した道筋、人との関係、結果を見直すと、必ず発見があるはずです。
到達ではなく、スタートへ
辛い事ですが、そのようなチャンスを捉え、データを見るように、自分を突き放してみる訓練をスタートさせましょう。何故なら、そのように自分を見る眼が育つ事で、理性が強くなり、自分も人類の一人であると認識できるようになるからです。正誤、善悪、優劣の問題ではなく、自分に関係する事をしっかり聞き、良く見る練習が大事なのです。この視点こそ、視野を拡大し、この時代、魂に通じる道となるでしょう。
更に、たとえ成功した時でさえ、他の人が行えば、違う考え方ややり方がある事も理解する必要があります。答えは一つではないのです。その事実を知る為に、現代はグループや組織活動が主体になっています。リーダーは突出した英雄でなく、多くの意見を聞きとり、協力する能力がある人、状況に応じて柔軟な対応ができる人が求められます。人類は一人で成り立っている訳ではなく、多種多様なグループで、全体が進化しています。
正しさを主張したり、あるいは反対に劣っている事を嘆くより、グループ活動を通じて、多様性を理解して、視野を広げる事の方が、余程重要です。多くの人の眼、多様な意見があって、全体像が見える、違う意見も何か意味があり、興味深い事がわかってくると、自己満足で思い込んだり、反対に卑下して落ち込む分離的な状態から、次第に解放されていくでしょう。
現在の地球では、ぶつかり合いによって破壊の渦に巻き込まれる生命と、新しい文化を建設する為の小さな創造の潮流が同時に起こっています。「正しいか正しくないか」「悟った」とか「まだわかってない」と論議している間に、世界では別の創造が起こりつつあるのです。私達は頑なな思い込みにこだわって、不満足の中に埋没し、虚しさを感じている暇はありません。新しい生命の潮流に参加する為、今までのこだわりを捨て、日常生活の新しい訓練と実践を始める事が大事です。これを怠ってどんな人も変わる事はできません。この点には、神のお告げや魔法のような瞬間的悟り、あるいはドラマチックな変化は存在しないのです。
長年学び人生を生きてきた後、このような考えを受け入れるには、相当の勇気と強さが必要です。そんな時だからこそ、真の善意と純度が試されるでしょう。そうあってこそ、人間が肉体の生死を越えて、永遠に進化し続ける意識だと証明できるのです。到達したら終わってしまいます。でもスタートならいつでもできます。これを実行し証明する人こそ、共に学んだ人々に勇気を与え、命の炎を掻き立てるでしょう。それが永遠の命の輝きとなるのです。