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手紙:2016-12-02

何の為に知るのか

知識の重み

もし「知識」が食べ物と同じように、栄養と重さがあって量る事ができたら、私達は今までどれだけ多くの知識を食べてきたか、その重さやカロリーなどは膨大でしょう。皆さんは、今までどのような種類のどんな知識を、どれだけ食べてきたか、考えた事がありますか?

知識を求め何かを知ろうとするのは、人間の知的な本能です。食べる事が喜びであるように、知性が目覚めてくると、人は知識を求め、それを純粋に享受するようになります。「知識を求め、知る事は素晴らしい事」なのです。

知識を楽しむ事ができるのは人間の特権ですが、実は特権だけに、「責任と義務」が伴っていると言う事も知らなければなりません。なぜなら知識には実際霊的なエネルギーがあり、知る事により神の栄養を食べているのと同じ現象が起こるからです。その為、知識をどのように使ったか、あるいは使わなかったかによって、霊的に問題が起こる可能性を理解する必要があるでしょう。

今日本では栄養学がブームですが、皆さんは自分の食事の質と量を、考えながら食べている方ですか?それとも食欲に任せて食べたいだけ食べる方ですか?もし私達が体質や消化、吸収能力そして消費量を考えずに、必要以上にカロリーをとり続けたら、どんな事が起こるでしょう。消化不良、便秘、肥満を始め、様々な疾病が起こってくるのは当然です。どのような体質で、何を食べ、どんな活動をして消費しているか、この一連の循環が病気と深く関係している事は、既に多くの人が知っています。

これと全く同様に、実は知識をどれだけ知り、どのように消化、吸収し、何の為にどう使ったかは、その人の人生に歴然とした影響を与えます。そして現代の肥満問題と同様、知識を知っても正しく消費されない為に、霊的な「知的肥満」、「知識の消化不良」、「知識の排出障害=詰まり」などが起こり、人生に苦悩や問題が起こす事は余り知られていません。これが影響して、実際に胃腸障害、うつ病、抑圧、あらゆる循環障害、免疫力の低下、極端な例では精神障害など、多くの病気や問題の原因になっている場合があるのです。

私達は、昔なら「秘教」と呼ばれた幾つかの教えを学び、人間はいかにして生きるべきか、人生の意義や問題点などを長年学んできました。多くの栄養ある知識を学んだと言えるでしょう。そこで各自が何故知識を求めるのか、実生活で充分知識の活用ができているか、何の為に使われたのかを、エネルギーの出納帳、あるいは貯金通帳を点検し、現在の自分の問題や苦悩が、エネルギーのアンバランスと関係がないか、考えてみる時期にあるのではないでしょうか?

知識と義務

世界には色々な知識がありますが、例えば原子力の知識を持っている人が、何の為に使うかによって社会に対する重大な責任が出てくる事を考えてみて下さい。反対に知っているのに秘密にしたり、充分活用しなかった場合は、知識がその人の所でせき止められている事になり、創造活動や知識を普及する義務を果たさなかったという弊害が生まれてきます。

では「いかにして生きるか」を学んできた私達は、責任をどのように果たせるのでしょうか?まず自分にその知識を適応させ、自分を創り変える訓練時期があったはずです。この実体験は、伝達するにも、活動するにも、人に影響を与え、大変説得力のある力になります。そして次に各自の才能と力を使って活動し、何らかの奉仕活動をするべきだと学んでいます。知識を得て学んだ人は、まず取り組むべき対象は自分自身であり、毎日その知識を自分に徹底的に適応させ、自分の肉体、感情、知性を訓練し、変化させなければなりません。

ここで私達は自分に問いかけます。果たしてその努力を充分果たしただろうかと。納得いった知識は、自分と言う材料に対して徹底的に適応し、結果を出すまで実行したでしょうか?これが充分適応できていないと、霊的な化学変化を通じて自分からエネルギーを生み出す事ができません。知識が自分のものになっていないと、言動に力がなく周囲に影響を与える事が難しいでしょう。「私がいくら言っても誰も聞いてくれない!何も起こらない」と文句を言う前に、人に影響を揮うだけの充分な努力を怠っていなかったか、点検すると良いでしょう。

次に知識によって変化を起こした人は、それぞれの表現方法を通して、何かを実行し社会に貢献しなければなりません。長年学んだけれども、その知識を普及したり、仕事や新しい活動を通じて役立たせた事もない。もしそのような状態なら、その人は知識を得た代償を、何らかの形で払わなければならないでしょう。それは苦悩や憂鬱になったり、束縛や健康障害など、活動が自由にならない環境条件を生み出すかもしれません。

私達はもし今何か苦悩や問題を抱えていたら、その根底にこのような原因が無いか、検討してみる必要があるでしょう。「私はそこまでの能力がないし、まだまだ充分わかっていないからできないと思っていた」。もし今でもそう思っているなら、わかった所までで何ができるかを考えてみましょう。知識を知り何も得るものがなかった人などいないのです。勇気を持ってどんな小さな事でも、自分が得た利益を周囲の人々や命の為に分け与え、進化の協力ができる事をすぐに実行してみましょう。

「助ける」という意味を考える

もう一つ重要な点があります。良き事を実行し奉仕活動をする、人を助ける為に活動すると言いますが、ここで私達は「助ける」と言う意味をよく考えなければなりません。現在人類に課せられているテーマの一つは「知的能力の発達」です。誰もが自由に、自分の力で考えて行動できる自立した知性を持つ事がテーマです。その為に仕事や家庭問題などを抱えて、全ての人が知力を高める練習を強いられているのです。

ところが人は知識を持ち、しかも自分が何かできると、人を助けると称して「こうしたらいい、ああすべきだ、こうしなさい。どうして言ったのにそうしないのか?」と指示や支配、命令調になり、最後には教えてやったのにどうしてそうしないのかと、怒ったり軽蔑する事が多いものです。これは「助ける」「奉仕する」事の理解を勘違いしているケースです。その人の知性が発達し、自立するよう援助するのが助ける事です。自分がその人の代わりに決定し、状況をうまく処理するのが助ける事ではありません。養育とか教育の意味は、自分の思った通りにうまく人を動かす事ではないのです。

また人と組んで、ある目的を果たす時、より多く知っている人こそ、一緒に仕事をする人や家族、職場の同僚に多くの配慮をする義務があります。つまり、他の人の能力が出やすいような環境、機会、配置などを考える最大の努力をしなければならないのです。人の文句を言う前に、自分がその配慮を怠っていなかったか、思慮が浅くなかったかを謙虚に考え直してみて下さい。できるだけ多くの人が奉仕活動や社会活動に参加できるよう辛抱強く考える事、これこそが学んだ人、能力のある人の愛の深さと言えるのではないでしょうか?

人が誤って自己中心的になるのは、まだ真の知性が発達していないからです。神の知識はとてつもなく広大で、無尽蔵な力を伴っています。その貯蔵量は、誰にでも求めるだけ与える事ができるものです。どうしたらそのエネルギーを受ける事ができるでしょうか。その人があらゆる知識を消化し、せき止める事なく、多くの人の為に役立てているならば、高圧なエネルギーの出口として認められ、直観が次々と与えられるでしょう。その人が大きなエネルギーの循環に耐えられるなら、真の理知性が発達します。その鍵は命に対する深い愛、慈悲、博愛以外に何もありません。

知識の応用により、人類は今後新しい文化を築き、新しい精神活動を始めます。その新しい未来の世界の為に、私達は既に持っている知識をどのように使うか問われています。たった一つの知識でも、自分に応用し、奉仕に使ったなら、どれだけ素晴らしい影響を与えられるでしょうか。毎日の地道な生活の中でしか、知識を応用する場所はありません。知識に出会えたこの人生、貴重なチャンスを是非生かして下さい。

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