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手 紙
手紙:2017-08-11
火の祭典に際して
霊的な火が燃えている人
私達は地球の進化に沿った道を歩む為に、長年勉強を重ね、自己鍛錬を続けています。その先には、尊敬すべき多くの聖賢覚者が存在していますが、中でも傑出した長である「イエス」が、二千年前、弟子を探す時にある条件を持っていたと言われています。イエスが弟子にした人々、それは権力者でも金持ちでもなく、多くの知識を知る学者や知識人でもありませんでした。「無心に働いている人」「無欲で尽くしている人」です。一体何故これらが重要な条件だったのでしょうか?
イエスはこのような性質を通して、「霊的な火」が燃えている人を探していたのです。「火」とは密教的には「魂が与えた知力」を表します。私達が「知力の発達した人」と聞くと、高い学歴がある知識人、学校の成績が良い人、この世で権力を振るっている頭の良い人を思い浮かべるでしょう。ここに、弟子道で必要な知力の条件と、一般的な頭の良さに、決定的な違いがある事が推測できます。
私達自身も人生で良い生活をするには、知性が大事であると知っています。だからこそ多くの人が教育に熱心ですが、同時に真の幸せを掴むには、知性が高いだけでは不十分である事も、理解しつつあります。それは知力の動機、働かせる向き、愛が関っています。私達の進化の目標は、知性に加えて愛の発達が求められているのです。知性が発達している人は多くても、愛の方向が自己中心的であれば、人生は破滅的になります。愛他的であれば、「霊的な火が燃えている」状態となり、イエスが求めた進化の条件に合ったものになります。
北半球の夏は「火が解放される時」です。つまり物質的にも霊的にも、知力のエネルギーが放出される時であり、これが宗教の儀式になり、数々の祭りに変形したのです。人類に解放される「火の祭典」に際して、人類の火はどう使われるのでしょうか。真の知力とはどのようなものか、霊的に火が燃える生き方とは、どのような道なのかを、学んでみましょう。
火が燃える条件
皆さんは「無心に働いている時」がどれだけありますか?無心とは雑念がなく目的に向かってやるべき事を淡々と行っている状態です。私達は何かしようとしても、「うまく行くだろうか?」「どれだけしたらいいのか」あるいは「これで霊的に進化するだろうか」「何とか早く終わらないかな」などと様々な雑念が浮かんできます。これらの声は、個人の欲望が働いている状態で、完全に自己支配した状態とは言えません。真の知力が働いている時は、意志が体、心、知性を一点に向け、集中された状態となり、個人的な心や計算は浮かんでこないはずです。つまり真の知力とは自分を支配する力=意志そのものなのです。
これが達成できた上で、更に動機には愛が必要です。「無欲で尽くす」とは、自分の為には何も取らず、愛他的あるいは目的の為に献身している状態です。それは、私達の意識がレンズになって、太陽光に向いている様子に似ています。
レンズを太陽光線に向け、可燃物に当て続けると発火現象が起こります。このメカニズムを考えてみると、霊的な火が人間の中でどのように燃えるかがわかります。太陽は物質的な熱だけでなく、霊的な直観やインスピレーションを与える魂を象徴しています。火は神から与えられたと言う神話があるように、魂が人類に光を与えなければ、人は知性を持つ事ができません。知力とは誰か個人のものではなく、魂から与えられた普遍的な力なのです。
火を起こす為には、レンズは透明で方向の焦点を決め、一定の時間固定しなければいけません。これは私達の意識が、無欲で透明、安定していて、忍耐強く内外の世界を結ぶ役割を示しています。個人の欲望が鎮まっている時、心は透明で平穏になり、優れたレンズの役割を果たせます。
受け継がれる火
この透明で安定した意識、光に向けてぶれない忍耐強さこそ、魂にとって魅力ある存在です。こうなって初めて、光を集める事ができ、直観や魂のアイディアが惹き付けられ易くなるのです。レンズの方向をひたすら魂の光に向ける事で、正しい愛を受けられます。それは、欲望が向くレンズの方向とは決定的に違うのです。
更に光を集めたレンズは、レンズを通した先に火を起こします。火は燃やす対象を浄化し、活性化するので、分配する対象が必要です。これが奉仕や仕事をする対象となり、この世での具体的な活動や仕事となります。光から発した火をもらった人々は、浄化され、活性化されます。この火の連鎖により、存在の特質や才能が引き出され、全ての存在の中に眠っている光が振動し始め、呼び合い、新たな火の活動が開始されます。
人間には誰でも知性の火が燃えていますが、進化する為には、燃える為の正しい条件があります。もし私達が利己的で、レンズを欲望に向け、自分に光を集めたら、火はそのレンズ自身を破壊するでしょう。知力は使い方を間違えると、破滅的な結果を生みますが、人はその事実に気付き出しています。その為、愛が大切だと理解し始めたのです。
イエスや釈尊のような優れた人々は、人類史上最強の霊的な火を燃やした人です。彼らのような人によって、多くの人に内在している光が呼び覚まされ、進化の道を進むようになりました。途切れる事なく、霊的な火を燃やす人が現れ、その火は歴々と受け継がれ、まだ燃え続けているのです。
自ら火を燃やす
現在の教育では、知識の記憶と集積が、知力のように誤解されがちです。知識の記憶は、古代、人間が既に獲得した力であり、知能の一部ではあるものの、真の知力ではありません。単なる知識を覚え、情報を照合し、回答を出す回路ばかり使っていると、火は燃えず、やがてくすぶって消えてしまいます。知識を覚えても、自分を支配する為にも使われず、分配もされず、魂に向けられる訳でもなければ、火は燃えません。火が解放される方向もなく、分配される先も無いからです。記憶力は増しても、理解力や直観力を犠牲にする事となります。
しかもこれらの知識の記憶と照合は、実際の仕事でも余り役に立たないでしょう。周囲を活性化したり、磁化する事ができないので、結果も出ず、人が集まったり物事の変化も起こりません。知識は人に誇ったり会話を楽しむ為のものではなく、自分を活動に駆り立て、鍛え直す為の材料です。高い教育を受け、多くの知識が氾濫する現在、自分がどのように知識を使っていたか、それによって火はどのように燃えたか、真摯に点検し、軌道修正しなければならないでしょう。
さて、火=知力がこの世の力を誇示する為、利己的に使われると、破滅的な状況を生み出します。私達はこの過ちを犯し、戦争を繰り返してきました。そのような事態を避け、進化を促進する為には、霊的な火が燃えている多くの人の活動が必要です。真の知力で磁化される人が増えれば、人々の望むもの、考え方に影響を与えます。自ずと社会が変わり、教育の方向も変わってくるでしょう。
「私に合ったものは何か?どんな奉仕が私の使命ですか?これをやったらうまく行くでしょうか?」と多くの人が答えを聞こうとします。しかし、最短で上手く行く事を知ったとしても、火は燃えません。まず私達は、レンズを磨き、透明にし、一定の方向に向ける為に、自分で考え、選択し、行動する為の目的を決めなければなりません。目的を決めたら、一つの結論が出て納得するまで集中し、忍耐と努力を重ねて働く必要があります。この作業を怠って、誰も自分の中に火を燃やす事はできないのです。自分の火は、自分で燃やす事が、全ての人の使命であり、その努力と苦闘によって、火が燃えるのです。
次に、利己的で頭が良い人より、無欲で心が浄化され透明な人の方が、遥かに早く進化すると言われています。自分の事ばかり考え、欲望や心配が先立つのは、レンズが自分に向いている証です。私達はレンズの向き、透明度の状態を、注意深く点検し続ける必要があります。
人間が進化するには、魔法のような簡単な方法はありません。たった一つでも原理を学んだら、たった一つの事から努力して始めるべきです。一つ学んで実行しないなら、千学んでも実行しないでしょう。自分の為に知識を収集し、力を使い続ける者は、いつまでたっても分け与える事もできません。全ての人が火の戸になる。これが「人=ひと」の原理であり、学びの結論です。あとは実行あるのみ。人類の魂に向かって、真に燃える火を見せる時、それが地上の火の祭典なのです。