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手紙:2018-12-14

記憶からの解放

自分を束縛するもの

人が年をとったと感じる現象に、「同じ話ばかりする」と言うものがあります。良かった事にしろ、悪かった事にしろ、その話が始まると「何回も聞いた」と言っても、昔話が止まりません。これはその人が「自分の記憶に縛られ、知性が留まっている事」を表しています。「年をとった」と感じるのは、過去の記憶が固まって、本来自由な意識を束縛し始めた現象です。

私達は、現在の人生のみならず、過去生の「記憶の蓄積」によって、無意識に自分を縛っていますが、それに気付く人は多くはありません。自分が思ったり考えたりする事は当然で、皆にわかってもらえるものと信じているからです。しかし記憶は「人格の過去の経験」に基づきます。実は千差万別である上に、魂的、普遍的なものではないのです。長く持ち続けると、結晶化して進化のエネルギーを受け入れられない障害となる可能性があります。その為、人はいつかどこかの人生で、記憶から自由になる術を訓練する事になるでしょう。人は自由を求める生き物ですが、自分を縛っている不自由さは、外的な環境や人ではなく、自分自身の記憶であると気付くべきです。今回は「記憶の性質」を理解し、その破壊方法を学んでいきたいと思います。

理想と記憶

以前「悟りたい」と言う理想を持って、仏門に入り一生懸命学んだ人の話を書いた事があります。「悟りたい」「進化したい」「道を歩まなければならない」、これらは意識の進化に目覚めた人の当然の欲求でしょう。しかし「悟りたい」と思って学んでいるうちは、真に悟る事はできません。その理由を記憶の面から検討してみましょう。

その人には、人生のどこかで「悟りたい」と強く思った瞬間があるはずです。その理由はどんなものでしょうか。誰か悟った素晴らしい人に出会い、憧れたからかもしれません。あるいは、悟ったらもっと頭が良くなると思ったのかもしれません。悟ると迷いがなくなり、心が楽になると信じたからかもしれません。悟ってない自分に恐怖を覚えたのかもしれません。いずれにしても、その人は「悟るとこうなる」と言うイメージを印象付けたのです。その時点で、悟りはその人固有の固定概念となり、時間がたっても「悟ってない自分」と「悟ったらこうなる自分」が固定され印象に留まり続けたのです。

その人の中には、「こうなる事が悟りであり、それ以外は悟りではない」と言う明確なイメージがあります。しかしその概念は、悟りの本質とは関係ないものです。ここから視野狭窄が始まり、固有の理想で自分や人を裁き、悟りを得る為の経験が始まります。それによって、若い頃は経験の幅が広がり、人格が成長するでしょう。しかし、概念が強くなればなるほど、それ以外のものを排除し、概念の外にある「真の魂」を求めなくなります。

「悟り」を他のものに置き換えてみましょう。多くの人が何らかの個人的記憶から、結晶化した価値観や美意識をつくっています。年をとると、自ずと経験が少なくなるので、掴んだ概念と経験が結晶化し易く、結果的に同じ話しかしなくなるのです。

記憶は知性の特性

記憶は知性の特性です。人間は記憶を元に、推論や洞察、理解などの様々な知的活動ができます。記憶は人間の重要な力ですが、現象界の個人的な体験に基づいたものであり、限られた環境、時代、人に限定された情報です。それらは絶対的なものではありません。また、同じ経験をしても、後から話を聞くと、人によってストーリーも印象深い部分も千差万別です。つまり、記憶はデータ、材料であって、真理ではないのです。ですから、どんな崇高な概念でも、個人の記憶から組み立てられた概念は、魂の価値観とは完全には一致しないのです。

一方、魂は常により高いエネルギーと接触しながら進化しているので、目指す目標や重要な価値観は、時代や状況に応じて変化していきます。また常に人類全体と交信しながら、最新の情報と状況を元に思考するのが魂です。私達が特定の意識に縛られる事なく、魂と接触する努力を重ねると、最新の進化の方向に触れる事ができます。

ところが、個人的な強い記憶や固定概念に縛られていると、意識が囚われて、魂と接触する余裕が無くなったり、真理が記憶によって歪みます。直観だと思ったものは、自分の記憶からつくられた勝手な理想だったり、歪められた真実である事が多いのです。

私達には、目標、概念、理想、そして記憶は必要です。行動するには何かを選び、話し、結論を出さなければなりません。しかし意識のどこかで、「違う考え方や方向もあるでしょう」「今はこれが最善だが、永遠に正しくはないかもしれない」「魂から見たらどうだろうか?」「やがてこれも最高ではなくなるだろう」と考える柔軟さや謙虚さが必要です。そこに断定や絶対的な価値観、強い思い込みを重ねると、自分はそれを掴み、到ったと言う自負が生まれ、それ以上の意識拡大を止めてしまいます。何より、違うと思うものを排除する事で、理解と言う愛が失われてしまうでしょう。

今、必要とされる事を知る

人間は魂のように進化し続けるべきなので、自分の記憶を破壊しなければならない時が来ます。どんなに優れたものでも、結晶化したものは、破壊して次に進むのが人間の進化です。

それでは私達は何を理想とし、何を正義とすれば良いのでしょうか?それは「全体への奉仕」です。今、現在、多くの人が苦しんでいる事は何か、必要とされている事は何か、世界は今どうなっているか?これを第一義に知ろうとする積極性が大事です。そして、自分の理想と正義を第一義にするのではなく、世界をそのまま受け入れ、奉仕する術を探すべきです。

「常にありのままを見る」、これは禅の世界でも心を浄化し、鏡のように平らかに保つ極意です。この世界の現象を、ありのままに見る事ができなければ、もっと高度な魂の世界を見る事はできません。まずはこの世で正しく奉仕する訓練で、意識を磨く必要があるでしょう。

更に、考える時、「過去の記憶を思考に触らせない」「個人的な価値観を影響させない」よう努める事が大事です。そこで、組織活動やグループワークが重要になってきます。グループの目的を理解し、多様性に触れ、多様な人の要求を知り、奉仕する事で、適応力を養うのです。その訓練の中で、固有の記憶や価値観は、余り意味が無く、寧ろ奉仕には弊害になる事を、悟るべきでしょう。

さて、美意識や価値観、目的を持っていても、いつでも自由に捨てる事ができると、その意識は恐怖を少なくし、自由への扉を開きます。もし人がここを目指せば、様々な関係の争いは減り、もっと創造的になるでしょう。自分の記憶と言う牢獄から解放された人は、臨機応変に多くの人を救済でき、その可能性は遥かに広がります。

何か問題にぶつかった時、あるいは人との会話や関係を考える時、自分がどの程度記憶に縛られているか、振り返ってみましょう。あるいはそれを発見する為に、時には美意識や価値観に反する事を選択し、経験してみる勇気も必要でしょう。ここに組織やグループ活動の意義があります。

自分に縛られている人は、人も束縛します。自分の記憶や固定観念が、自分と周囲の人を縛り、不自由にしてはいないでしょうか。束縛が進化を阻害し、そこに恐怖も生まれます。年齢や国籍や健康状態に縛られる事なく、そして過去の記憶に縛られる事なく、自由に奉仕の道を見つけられる意識。これこそが魂の求める理想であり、魂は私達を通じて、真の創造を自由に始める事ができるでしょう。

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