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手 紙
手紙:2019-10-11
イメージの使い方
私達が進化する条件に、「環境から支配を受けない意識」と言うものがあります。簡単に言うと、「○○が無いからできない」反対に「××があるから、身動きが取れない」と言うように、何かが有るか無いか、または環境の条件が、目的達成や行動の妨げになってはならないと言うものです。しかし、人生を振り返ると、今までこのような理由で、諦めた事は数知れないでしょう。
環境条件が目的に影響を与えるのは、当然の事です。しかし、真に価値がある事や進もうとする道が、条件から不可能だと思う事は、意識が虚構に縛られているからです。何故でしょうか。できないと思う理由は、実際の条件ではなく、その人特有の「イメージ」があるからです。その証拠に、同じ環境条件でも、やる人とやらない人は分かれます。どんなに悪条件でも、挑戦する人や、物事を成し遂げる人はいます。制限しているのは、環境や条件ではなく、その人のイメージ=固定観念や幻影です。この事実に気付くと、人間の意識はもっと自由になり、可能性が増え、臨機応変で寛大になるでしょう。今回はイメージが、いかに我々を束縛しているかを検証し、今後の意識活動に役立てたいと思います。
例を出して考えてみましょう。最も単純なイメージ「お金があったら幸せになれる」と言うものです。そう思い込んでいる人は、お金で何かが達成されると、喜びや幸せが得られます。しかし、幸福感は長続きしません。するとお金が無いから不幸なのだと思い込み、またお金を求めます。物質界は絶えず変化するので、得たり失ったりし、その度に落胆と幸福を繰り返します。
「お金があったら幸せ」と言うイメージは、同時に「無いと不幸だ」と言う対極のイメージを作り、セットになります。その両極のイメージを往来すると、強い固定観念になり、意識は次第にイメージ自身に縛られていきます。状況は様々に変化し、本人は色々な経験をしているつもりですが、実は同じ枠の中を往来し、意識が枠に閉じ込められている現象に過ぎないのです。そう思っていない人にとっては、どちらも同じで、意識が止まっているようにしか見えません。これが虚構の真相です。
「健康が幸せ」とは「病気は不幸である」であり、「○○は美」「そうでないものは醜い」、「楽しさが大切」は「楽しくないものは駄目」、「これがあったらできる」は「無いからできない」、「正義とは○○」は「それ以外は不正」‥となりますが、これらは人類の誰かが創り出したイメージであり、高い階層にある魂の真理とは何ら関係の無いものなのです。
魂の創造力
では、私達を縛るイメージとはどのように生まれるのでしょうか?例えば、私達が魂意識を受けて、良い事をしようと考えます。するとその思想は、その人の持っている知識や才能などと結びつき、具体的な目的や形=イメージが浮かびます。その時、イメージと一緒に、その人の持っている様々な情報や感覚が、条件として一緒にイメージに組み込まれるのです。つまり、イメージは、その人が持っていた固定観念と一緒に作られる事が多いのです。
例えば専門的に知っているからこそ、不可能だと思い込む、経験しているからこそ、できないと思い込む事があり、何も知らない人が、簡単にやり遂げたのを見て、驚く事があります。また、専門外だから達成できた偉大な発見は多いものです。イメージは同じでも、それまでの経験や知識が違う為、固定観念による条件が違ってくるのです。だからこそ、人を縛ったり、自由にしたりするのです。
イメージが、意識を縛らなければ、表現の形や方法、道筋は自由に受け入れられ、選択できます。私達が善意を表現しようとする時、善エネルギーの分配が最も大切だと理解すれば、形は手段なので、もっと自由で寛大に考えられます。大事なのは形ではなく、魂のエネルギーを理解し、分配する愛が根本にある事です。これさえ明確であれば、完璧でなくても、できる事から取り掛かかれるでしょう。
また、魂エネルギーは愛であり、強力な磁力があります。必要な物、金、人材は、時間の長短はあっても、忍耐と努力さえ続ければ、引き寄せる事ができます。魂の愛は引き寄せる力であり、最高の創造力を持っているのです。
最初は魂からの愛が動機であっても、イメージ力が主体になると、形やその人独自の考えや感覚が目的となり、意識の頂点となってしまいます。そしてイメージに縛れると、魂の愛が遮断され、意識が物質に支配されてしまいます。これが環境に支配された意識です。
このような間違いから、私達は多くの可能性を奪われ、苦悩してきました。可能性を奪っているのは、自分自身の作り出した物質的なイメージだと気付くと、意識は自由になり、魂の愛は再び働きだすでしょう。
条件と言い訳
水瓶座の現代は、奉仕と博愛がキーワードです。特にこのような勉強をする人達は、何か世の中の役に立ちたい、進化の方向に沿った行動を取りたい、奉仕しなければならないと言った善意を強く持っています。
ところが、忙しい生活、優れない健康状態、ままならない経済状態、才能や資格の不足など、個人生活には色々な制限があります。「自由になったらできるのに」「才能が無いからできない」と、諦めたり先延ばししている目的は幾つかあるでしょう。しかし、それが本当の理由でしょうか?何かできないと思わせる自分固有のイメージがあったのではないでしょうか?このイメージ、あの方法でなければやる価値がないと考えていないでしょうか?やろうと思ったら、他の道、他の方法でも、小規模でも良かったのではないでしょうか?本当は怠惰から、自分に対する言い訳にしていなかったでしょうか?
魂の愛とは、個人や環境を変えてしまうだけの磁力や支配力があります。中々真似できない例ですが、マザーテレサが身一つでインドに渡り、生涯ロザリオとサリーと食事の器一つしか持っていなかった事を思い出して下さい。いかに魂の力が偉大であるか、また信仰心がその力を引き出したかを考えてみましょう。
水瓶座を生きる私達には素晴らしい善意が与えられています。その善意が形にならないのは何故なのか、あるいは善意から何故争いや分裂が生まれてしまうのか、何故多くを否定してしまうのか…。その根底に自分や人が作ったイメージが無いか、注意深く考えてみて下さい。イメージは行動する時大切なものですが、自分を縛るものであってはならないのです。
自由な奉仕
人類に最も偉大な奉仕をした人に、釈尊やイエスが挙げられます。釈尊は王子でしたが、悟りを開いた時、その地位は捨てていました。イエスは「頭を横たえる場所さえ無かった」と記述されています。そのような状態で、彼の成し遂げた偉業に思いを馳せてみましょう。その偉大なエネルギーは、二千年たってもまだ世界に鳴り響いています。この一点を考えても、奉仕や偉業とは、物質的なものが条件ではないとわかります。
このような事例は、極端でとても我々の及ぶところではないと思うかもしれませんが、真理や法則は、ここから掴む事ができるはずです。偉人や聖人と呼ばれる人の一生が、何を物語ろうとしているかを理解する事、そして自分にできる事から、少しでも近づこうとする努力が大切ではないでしょうか?
最高の奉仕とは、魂の愛と光を伝達する事です。その手段として行動する為に必要なのが、イメージです。明確なイメージやビジョンは重要です。しかし反対に、イメージが固定観念になると、魂エネルギーが遮断されてしまいます。魂エネルギーを伴わない行動は、形が社会的に評価されていても、魂から見ると奉仕にならない可能性さえあります。
魂の愛が本質なら、可能性を広く理解でき、寛容さが生まれるはずです。イメージを持ち、違ったものに対して、拒絶や憎しみが生まれたら、自分の意識が何に縛られている可能性があります。愛ではなく、形が一人歩きしていないか、意識を点検してみましょう。
人類は、過去に作り続けた固定観念の長い呪縛から解き放たれる必要があります。新しい時代に生まれた私達は、全ての人が自由に奉仕し、互いを認め合う事ができます。その時、魂の愛は、私達を通じて、流れる道を自由に見つける事ができるでしょう。