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手 紙
手紙:2020-07-17
適応力と強さ
変化の重要性
「心穏やかに生きる」。これは多くの人の願いであり、年をとったら忙しい生活から引退し、平穏無事に毎日を過ごせると期待していた人は少なくないでしょう。ところが実際は、介護、病気、孫や子供の問題、近しい人の突然の死、お金の心配、世界情勢の急激な変化など、とても穏やかに過ごせる状況ではなく、寧ろ必死で働いたり、心配が増えて苦労が重なるケースは珍しくありません。一体世界では何が起こっているのでしょうか?
進化論を説いたダーウィンが次のような名言を残しています。「生き延びられるものは、最も強いものではなく、最も賢いものでもなく、変化できるものである」。これは今の時代に再び深い意味を持つ真理となっています。以前、現代に最も必要な特質は「適応力と柔軟性」であると説明した事がありますが、長く生きる人間は、死ぬまで変化して適応力を試される時代に生きています。今回はこの問題を、愛の観点からもう一歩進めて考えてみたいと思います。
「変化、適応力、柔軟性」に優れた生物として植物が挙げられます。植物は「地球の服」に例えられる緑色で、茶色の大地を覆っています。環境の変化に応じて、形や強さを変化させ、種によって時間を越え、太陽光線を吸収しながらどんな場所にも生存しています。一旦枯れ果てたかのように見えても、条件と適応力さえ整えば、植物は再び芽吹く強さと、ひたむきに成長する純度を持っています。また、法則と目的に合った形をしているので、植物は美と強さ、効率良く適応する知性も兼ね備えた優秀な種族です。
自由意志の是非
人間は知性が目覚め、適応力が増したので、過酷な環境にも適応し、地球上のあらゆる場所に住む事ができます。しかし、人間に求められている適応力は、ただ生き延びると言うものではなく、現在「愛に基づいた適応力」が試されています。
植物の適応力は主に形に表れますが、人間が変化させるべき形とは、心や知性のような見えない意識の形です。もし人間が、この試練に打ち勝ち、多くの人が難関をパスすると、地球の服は植物の緑だけでなく、人類が高度に発達した新しい緑を着せる事ができるのです。その緑は愛=藍色を帯びた奥深さを感じさせる緑です。その為には今多くの人が直面している問題を通して、形の奥にある命の一体感=愛が呼び起こす必要があるのです。
ダーウィンが説いた「変化する」力を妨げている要因に、人間特有の頑固さや信念、思い込みがあります。頑固さや誤った思い込みによる信念は、自由意志が変形したものですが、自由意志は、現在の複雑な時代を生きる為、大変良いものでもあり、反対に進化を阻害する悪い要因にもなっています。
人が状況に適応できない理由を考えてみましょう。やり方がわからない場合は知性に問題がありますが、これは素直であれば、多くは方法を調べて適応できるでしょう。怠惰でできない場合は、動きたくないと言う自由意志を選択しているので、甘んじて結果を体験する必要があります。
一番多いのは、方法はわかっているが、自分の考えと違う、間違っていると言う正義感や信念、美意識に反するのでやらない場合でしょう。その理由は、自分が変化して対応するのではなく、相手の状況を変えようとする意志が働きます。この選択肢は、相手と自分の間に大きな葛藤を生み出すだけではなく、自分の中にも怒り、排除や拒絶、分離感、悲しみや思慕など、ネガティブな感情を呼び起こす為、大きな苦しみや苦痛を生み出します。私達はこの方法を選択している事が多く、その為大変なストレスや衝突問題を生み出しています。
問題の本質
しかし、問題の本質が、もし自分の心、知性の適応力を試す為に起こっているとわかったらどうでしょうか?これが正しい、相手の方が劣っている、それはおかしい、醜いなどと言う価値判断ではなく、状況に応じて、自分の心と知性を自由な形に変える訓練だと理解したら、私達は自己主張するのを止め、文句や不平も遥かに少なくなって、速やかに状況適応するのではないでしょうか?
何にでも適応するなんて節操がない、それこそ自分の意志や知性を放棄していると思われるかもしれませんが、高度な真の意志を知るには、どんなに優れたものでも、個人的な心や考えの形を放棄しなければなりません。何故なら真の意志とは、個人の法則に従うものではなく、地球の法則に従うものだからです。私達は個性的になって心や知性が発達すると、自分流と言う法則に従い出し、もっと大きな法則がある事を忘れ、やがて頑固で思い込みと正義感に満ちた人に留まってしまうのです。そして「私は正しく生きているのに、何故こんな目に遭わなければならないのか」と嘆きます。意志が、狭い心と偏った知性で曲げられ、それを信じて疑わない事に気づかないのです。
愛と我慢
深い理解の愛=藍色がテーマである現在、適応の基本は普遍的な真理の理解です。その為、戦って勝つ事より、周囲の人々や環境の様々な生命を、正しく面倒見る態度が求められます。ここで大きな問題になるのが、意識です。大抵は問題が起こると、仕方ないので、適応する形だけはとるものの、抑圧した怒り、相手を批判する優越感や分離感、先行きを考えた心配、考えないようにする無視・拒絶、自己憐憫などに苛まれ、強烈な我慢=ストレスを覚えます。これらは「意識の適応」ができていない為に湧き上がってくるのです。私の意識を変えたくない、私は正しいと言う歪んだ意志の壁が、変わる事を拒んでいるのです。残念ながら、我慢と愛は同居できません。
我慢や抑圧とは、表面的には適応しても、「私の」意識は頑なに変えないまま対処している状況です。魂から見たら、意識こそが最も重要であり、うわべの形はどんなに上手く合わせても、意識の形が適応したとはみなされないのです。問題の本質が理解できず、自分を変えない場合は、問題が長引いたり、何回も同じ種類のハプニングが起こるでしょう。私達は苦労し、あえぎながら、自分らしい感性、感情、考え方、地位、プライドなどを捨てないよう必死で抵抗しているのではないでしょうか? こんなに我慢しても、魂から見たら何も変わらなかったと言われる恐れがあるのです。
純度と内なる炎
魂の目的は、不完全な人格を自由に作り直して、魂の乗り物=道具にする事です。魂に対して素直な人格は、必要とあれば、心と知性の形を変える事に抵抗しません。魂の進化から見ると、この世で信念を貫き、個性的に生きて認められた人よりも、目立たず黙って淡々と生きた人の中に優れた人がいると言われます。
人格を純化するのは魂の炎です。炎は人格の中で燃え続け、意識の形を壊しては新しいものをつくります。魂から見て、いつまでも若々しい人とは、欲望の炎による若さ=個人的主張の強い人ではありません。魂の炎と繋がるように、邪魔する意識の壁を破壊する人、これが真の若々しい人と言えるのです。
自分の限界を破壊した時、信仰心があれば、魂に自分を委ねる事ができ、真の内的建設が進みます。人間は、これを何回も繰り返しながら、純度を高め、魂に対して洗練された人格を築いていきます。様々な適応を迫られる問題を通じて、私達は自分の中の怒りや不満、曲がった理想や利己主義を捨てるチャンスに出会います。そして私達には、その選択にさえも、自由意志が与えられているのです。
神の愛に対して、柔軟に適応するには、自分の中の「最も賢い、最も強い」と思っているものを、捨てられるかが問われます。愛の炎とは、そのような厳しさの中で成長していくものです。死ぬまで続くその炎の輝きは、周囲の生命を育み、人々を導く命の灯台となるでしょう。人類は、新しい緑を地上にもたらす事ができるでしょうか。藍色を帯びた深い緑、素晴らしい適応力と魂に対する愛こそが、地球と人類を救うでしょう。