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手紙:2016-08-19

未来の世界に見出すもの

視野の拡大に必要なもの

私達の知性の進化では、「視野の拡大」と言うテーマがよく言われます。何か物事を始めると、ある一点しか見えなくなり「木を見て森を見ず」と言う「視野狭窄」状態に陥り、本来とは違った方向に進んでしまった経験は誰でもあるでしょう。現代の知性は、広い視野と理解が土台となるので、視野を拡大しなければならないのですが、何がどう変化する事が視野の拡大なのかわからないまま突き進んでいます。今回は理知性の進化の鍵である視野の拡大について考えてみましょう。

人は視野が狭いと言われると、闇雲に沢山の経験をしようと走り出す傾向があります。またできるだけ多くの情報を集め、一生懸命勉強を始める人もあるでしょう。勿論人生の多様な経験はその土台になるかもしれません。しかし多くを経験し膨大な情報を知っている事と視野が広い事は必ずしも一致しません。一体何故でしょうか?視野が広がると、人は一体どのような考え方になるのでしょうか?

究極的に視野が拡大したモデルとして、人類には多くの先達がいます。彼らは聖賢覚者として私達に哲学、宗教、宇宙論など永遠不滅の素晴らしい教えを残しています。形や方法は違っても、彼らは共通して魂的な「愛の問題」を語っています。つまり視野が拡大すると、どのような人生の現象、局面にも、人間を地上に送り出した魂の愛を見抜く事が出来るのです。愛とは私達に物事の本質へと立ち戻す真の洞察力を与えます。つまり視野の拡大とは、多くの現象や知識を知ったら、その背後に働いている原因や目的を探り、その事を通じて愛が何を学ばせようとしているかを知る知恵に通ずると言えるでしょう。何故なら、地球生命は愛で全てを繋ぎとめ、進化の流れの中で生かしているからです。ここに意識が至る為には、一人一人が相当考える努力をしなければなりません。つまり、視野を広げる為には、経験の質を高める努力をする必要があるのです。

批判の弊害について

私達は経験をする度に、人格の確立の証として批判をする傾向があります。確かに批判はある時期知性の発達を示すものではありますが、多くの聖者は「無批判の態度」が重要だと教えています。何故批判は進化を疎外するのでしょうか?

では実際一日でも心の中に批判を持たないよう実行してみて下さい。本当に実践してみれば、いかにそれが難しいかがわかるでしょう。私達は心の中で、あるいは言葉にして、あらゆる事を批判し文句を考え、人のせいにしています。例えその批判が事実であったとしても、言葉の背後に憎しみや冷笑、分離感、怒りや排他的な意識が全く無いと言えるでしょうか?もしこれらの感情が皆無であれば、それは純粋な分析や検討と言えるでしょう。しかしほとんどの場合、これらの暗い感情が心を支配して言葉を吐かせている為に、批判は人々の間に憎しみや争いを引き起こすのです。

批判の精神は完全な分離感に立っている為、断定的に物事を判断でき、それ以上考える必要が無いと結論づける事ができます。これでは知性が成熟するはずがありません。更に、背後には排他的な憎しみや怒りの感情があり、その言葉の波動は、より良い未来を築く努力を断ち切ってしまいます。

もし人が今よりも一歩更に融合する接点を探る努力を重ねるなら、もっと思慮深く考えなければなりません。物事の原因を洞察し、何故人がそのような行動をとったのか、どうしたらお互いに歩み寄り、より良い結果を出せるか、融合の可能性は無限に続いています。ところが、その未来を切り棄ててしまうのが批判なのです。

批判し断定するのは簡単ですが、本当にこれでいいのかと、更に追及し、考え抜くには大変な努力が必要です。大抵の場合、面倒になり忍耐が尽きてしまい、相手や自分に怒りが湧いてきて、安易な批判を繰り返してしまうのです。つまり私達は批判と言う知的怠惰な道を選んでいると理解できないでしょうか。

だからと言って修身道徳のように、何事も和を持って穏やかに治めようとする「事無かれ主義」を勧めている訳ではありません。これも別の意味で考える事を放棄した怠惰の一種です。

批判も事なかれ主義も、どちらも考える事を放棄した簡単な道です。そして、先入観とは同じ思考を繰り返す惰性に支配されています。どのような事柄も、長年知っている人にも、常に初めて出会ったように、そのものを見ようとする態度、これを一貫して保つ事は、宗教の修行の一つになっています。これは自分に対して相当厳しい決意をもって望まなければ、達成できる事ではありません。

内的奉仕活動

今、私達に求められている奉仕活動には色々なものがあります。その表現の場は人の特質や才能によって様々であって当然です。しかしどのような活動をしていても、全ての人が直面すべき内的奉仕活動があります。それは自分の意識空間を浄化する奉仕です。憎悪や怒り、憎しみと言った暗い感情は、自分も含めて全ての人の意識空間を容易に汚染し、伝染的に広まります。どのような理由があるにせよ、この汚染は全ての努力と美徳を台無しにし、真実を曇らせ魂の光を遮る最大の障害になるのです。

暗い感情を食い止め、怒りを鎮める為には、愛から発せられる正しい理解を、絶えず自分の中から引き出す必要があります。正しい理解は自分を納得させ、利己的な感情を消散する力があります。この努力は魂からやってくる光のパワーを導き出す最大の奉仕活動だと言えます。

私達は人生の問題点に背を向け、争いや実際的解決を避けて生きる訳にはいきません。人は実生活の泥の中に足を踏み入れ、それでいて頭を光に向けて生きるよう創造された生物です。様々な問題に囲まれていても、そこに正しい理解をもたらす事で、光の伝達という素晴らしい奉仕ができます。しかし、それには広い視野を持つ知性が必要です。

視野を広くする為には、ある問題に直面した時、実際的な問題の意味から人の心の動き、問題の原因、魂的な意味まで、多次元的解釈をするよう訓練すべきでしょう。本来全ての命が不完全で、訓練を受けている片割れであると知るならば、どの命をも裁いたり批判する事は、誰にもできない事がわかります。更に魂の年齢や達成すべき目標などは全ての人に違いがあり、その意識のテーマまで理解できれば、何故その問題が起こったかも当然納得できるでしょう。

この深い理解が達成され始めると、自分の中に憎しみや怒りが安易に燃え上がる事は無くなります。反対に批判し断定する事ができた自分の知性が、いかに浅はかで幼稚であったかを知るでしょう。また愛の表現の為には何を手放し、どう選択すべきなのかが自然と見えてくるものです。

過去と未来の摩擦

今過去と未来の二つの空間がぶつかり合って、世界に大きな摩擦と亀裂をもたらしています。その真の意味とは何でしょう。過去とは前の古い時代を表すのではなく、自己中心的な意識に囚われた狭い空間を意味します。そして未来とは、命の一体性と融合を達成する為に生きる新たな価値観を持った世界を意味します。つまり過去と未来とは、一人の人物の中に存在する善と悪のぶつかり合いを象徴しているのです。過去も未来も永遠に自分の中に存在するのです。

新時代は魂的な世界を促進します。人々はそのエネルギーに刺激され、益々魂からの良心に耳を傾け、自分の中に過去と未来のぶつかり合いを経験する事になるでしょう。未来は、人類全体の命と、地球環境の美を優先して考える態度から生まれます。苦しみがある事は幸いです。未来を考えるなら、多くの人が、自己中心的な過去を手放す事を選択するでしょう。

そのような勇気ある者が増えるほど、地上の二つの勢力は激しくぶつかり合います。地上が全て楽園のように平和に統一される事はないかもしれません。善と悪の闘いは人間の内的世界でそう簡単に終わらないからです。反対に激しくぶつかり合うその闘いを、現実のものとして目撃するかもしれません。

やがて全ての人はどちらの世界に生きるかを選択し決意する時がやってきます。例え失敗しても何を成そうとしたのか、意識は何を目指したかが、次の世代の命に引き継がれていきます。まさに視野の拡大は経験の多さや年齢によって決まるのではなく、その意識の目指した質によって達成される事になるでしょう。

多くの人が自分の幸せの為に悩み果てる幼児期を越え、人類全体の未来が何を目指すべきかと言う視点に目覚めてほしいと思います。その為に無意味な人は存在しません。全ての人が力を出し合う努力が、真の視野拡大につながるのではないでしょうか。

忘れがちになりますが、見えない世界には私達人類を指導している偉大なる魂たちが存在しています。愛と知恵のエネルギーによって、彼らと私達は永遠につながっている事を、思い出して下さい。私達はそこからいつでも力を引き出す事ができるのです。

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