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手 紙
手紙:2016-09-16
知的に生きる意味
知的訓練の必要性
随分以前から21世紀を迎えるにあたって、私達は「新時代」と言う言葉をよく使うようになりました。何かが新しくなる時代に、希望と光を託す訳ですが、エネルギーと質量が入れ替わる為に、しばらくの間多くの「破壊」も起こります。戦争や災害、環境問題、仕事の質、政治や経済のあり方、心理問題などでは、今までの対処法が通用しなくなってきています。つまり新時代には「新しい適応」を迫られる事態に直面するのです。では「新しい適応」とはどんな事でしょうか。
それは特に教育問題と仕事の能力で求められている「知性」の発達です。「愛を知的に表す事」、今まで豊かに発達した心と感性を土台に、今度は愛のエネルギーを知的な能力として表現しようというものです。その為、地球規模で起こる災害や環境問題、エネルギー問題の対処にも、論理的な原因の追求、科学技術の開発は必然です。人類全体が問題解決に当たって、知性の試験を受けているのです。ではどうしたら「知的」に発達できるのでしょうか?「知的」とは一体どのような状態を言うのでしょうか?
このテーマは人類の進化過程に関係する事であり、禅を始めとする密教の世界では、以前から常に取り上げてきた深遠な問題です。以前は悟りを求めた一握りの人のテーマでしたが、現代の日本では多くの人の切実な問題になってきたのです。
知的雰囲気と知識の違い
禅の教えでは、多くの知識を学んだからと言って、人は進化するものではないと言い、この事は私達も繰り返し教わってきた事です。知識を沢山知っている人が、知性が高くなり、変化し進化するとは限りません。
この問題を明確にする為に、情報を多く知っている知識人と、物事に際して真に「知的な雰囲気」を持っている人の違いを考えてみると、私達の目標の一端が見えてくるかもしれません。では皆さんは自分の事を知的な人だと思いますか?もしそうでないと思うのならその理由は何でしょうか?また周囲で知的だと思う人を思い浮かべてみて下さい。このように考えてみると、知識を愛する人や情報をよく知っている人は多くても、真に知的な雰囲気を持っている人は、案外少ないと気付くのではないでしょうか?この判断の基準になっているものは何でしょうか。
もしその人が目的に向かう態度や問題の対処で、常に知的な雰囲気を持っているなら、それは人格が知性によって統一されている事を示します。つまり知性が人格の頂点に立って、心や体など個性の要素を秩序立てて支配しているのです。
知性が「知力」となっている時は、知性が考えた通りに自分の個性を使いこなし、様々な要素が融合し、統一されているので、それが知的雰囲気となって表れるのです。そのような人は目的を持って何かに取り組む時、知力が頂点となり、人格の要素が目的に向かって一丸となるので、集中力を発揮する事ができます。自分を使いこなす支配力、人格を対象に整列させ集中する力が、知性や品性となって人々に感じられるのです。
知識を知力に変える
もし人が知識を手に入れても、自分自身の内的な支配力として活用していなければ、それは単なる知識に終わってしまいます。人格が知性に従って統一、融合する「力」になっていないと、分析や検討、論理と選択、結論と行動がバラバラに見え、「知的」に感じられないのです。これが知識を知っている事と、実際に知力を活用して生きている事の違い、または学者と実践者、神秘家(憧れを持つ)と密教徒(実践者)の違いとなるのです。
禅の高僧である道元は、真の禅を学ぼうと中国に渡り、多くの学僧が山のような仏典を持って帰国した一方、何一つ持たずに帰ってきました。悟る事とは知識を伝える事ではありません。人間の進化とはより高い階段を登り続けるように、より高い意志に従って自分自身を内的に統一する訓練の連続なのです。知識を日常生活で自分の訓練に生かし、意志で統一した新しい自分、これこそが本当の宝であり、彼はその知恵を体現して帰る事を土産としたのです。
道元は修行中、その意味を寺院の典座(てんぞ)の姿に見出しました。必死で座禅をし、知識を追求していた道元は、典座に「学者」と呼び止められました。それが寺で食事を作る役目をしている人でした。典座は悟った高僧でなければ務められません。寺の食事は修行をする若い僧の命を預かる大変責任あるポストです。その作業に持てる知識と工夫を込め、全身全霊で取り組んでいる姿の中に、道元は本当の光と知恵を見出しました。そして自分の生き様との違いを認識したのです。
人間は様々なエネルギーが複合した高度な組織体です。私達は地球の歴史と知恵の結晶であり、小さな宇宙なのです。人間の進化とは強さを表す事であり、それは高度な意志で、個人の要素(体、心、知性)を統一する事と関っています。何回もの転生をかけて、訓練する難事業ですが、これは正しい知識に基づいて、科学的に行わなければできません。ここに知識と知性が必要になってくるのです。人はこの力の度合いを「知力」として無意識に感じとっているのです。
知識は優れた先達の知恵から生まれた財産です。全ての知識が公になり、求める人には全てが分配される時代、全ての人に平等にチャンスがあると同時に、私達は次の事を覚えておかなければなりません。つまり知識を習得したり学ぶ事は、同時にその人に責任も発生すると言う事です。
真の錬金術
もし私達が知識だけを求め、その知識を自分の訓練や人の為になる仕事に活用できなければ、それはプライドを満足させるだけの毒となるでしょう。また脳に異常な緊張を残し、結果的に精神的なダメージとなってのしかかる可能性があります。何故なら脳は全身を支配する為にあり、知識のエネルギーは脳を通じて全身に分配されなければならないからです。分配とは、毎日の行為の支配と仕事や目的、義務の実行に、知識を活かす事です。
知識の修得が、プライドを満足させたり、単なる好奇心や趣味に終わり、知っているけれども日常生活がかけ離れたものになっている、これはエネルギーの循環を怠っている事になります。やがてエネルギーの停滞は何かの障害となって、現れてくるでしょう。
多くを知るより、少しを知り、自分のバラバラな諸体を統一する訓練を実践する事が大切です。少しずつであっても、この作業が知的な雰囲気として、自分の中に化合を起こし変化が進みます。この化合と変化が、古代から言い伝えられている本当の「錬金術」なのです。
さて、素晴らしい料理は、全ての素材や調味料が融合した新しい一つの味を作り出します。私達は自分自身の料理人です。知識は料理の材料であり、手にいれても放っておいたら、腐敗し始めて自分を汚染していくでしょう。反対に少しの材料が手に入っても、最高の工夫を凝らし知恵を絞って料理を作ろうと工夫する人は、素晴らしい料理を人々に与え続ける事ができるでしょう。
禅の世界で典座が悟った人の象徴になっている意味を考えて下さい。どのような材料を与えられても、人は他の人を喜ばす事ができる最高の料理を作れるはずです。その才能は皆さんの中に眠っています。その時々に最高に生きようとする愛が、全ての素材を余すところなく生かし、驚くべき知恵に変貌します。その可能性、喜び、そして人間の責任を理解して、皆さんの日常を再度考えてみて下さい。